風雲千早城、日本三大山城の高取城へ(紀伊編2/3)

2010/08/09 カテゴリ:登城録(近畿地方)

2010/7/17 和歌山城から約1時間。次の千早城へ行く前に寄り道です。「女人高野」と言われている「天野山金剛寺」を拝観。聖武天皇の勅願により僧侶「行基」が開創し、後にかの有名な「弘法大師」が修行された場所。

高野山は明治まで女人禁制であったが、ここ金剛時は安末期に後白河法皇と皇女八條女院の帰依を受けて「阿観上人」が復興し、特に「八條女院」が、こちらも「弘法大師」で有名な『高野山』より真如親王筆の「弘法大師御影」を賜り『御影堂』に奉安し、「女性の参拝」を許したので「女人高野」と言われるところ。

天野山金剛寺

ここで、千早城までの道を聞いたら、受付のおばさんが「ここまで来たのだから是非楠木正成の墓がある、南朝ゆかりの北斗七星を祭る寺。観心寺を観ていってください」と言うことで、更に寄り道。この寺は楠木正成公の幼年時代の学問所でも有ったところ。下は楠木正成公の銅像です。12:40寄り道はここまでで、一路、千早城へ。

観心寺

楠木正成公

千早城

ここが、千早城の登り口(近道)。本来は700段もある石段を上がって行くということでしたが、直登です。

55千早城
頂上付近に千早神社が建っており、楠木正成公を祭ってあります。そのための(神社の)石段でした。

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千早城址

千早城と言うと小学校3年のとき読んだ「風雲千早城」という本を思い出します。

鎌倉時代末期から南北朝時代に存在した楠木正成の城で、四方を絶壁に囲まれた要塞堅固を誇った連郭式の山城。

正成の本城であった上赤坂城を鎌倉幕府軍に奪われ、その詰めの城として背後の山上に築いた。

現在、この城は石碑が残るのみですが、峯の両側は深い谷になっており、天然の要害。

1333年、鎌倉幕府は千早城へ百万の大軍を向け、これを攻め立てたたが、籠城側・楠木軍は僅か千人足らずの兵で100日間に及ぶ籠城戦を戦い抜き幕府軍を撤退。藁人形を用いて大軍を擁しているように見せかけたり、ゲリラ戦を用いて敵軍を翻弄、また崖を登る敵兵に矢を射たり大木・岩石を転がり落とすなどして撃退したといわれ、胸躍る思いで一気に読破したことを今でも鮮明に覚えています。また、挿絵が良かった。

千早城へ釘付けになっている幕府軍の間隙を縫い、関東において挙兵した新田義貞は、手薄となった鎌倉を攻め、遂にこの年、鎌倉幕府は滅亡することとなります。

正に、砦です。良く1000人もの人が100日も籠城出来ましたね。水や食料はどうしてのでしょうかね?「太平記」の記述だから、誇張もあるでしょうね。

千早城址

千早城址からの展望です。

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紫陽花が一服の清涼剤

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さあ~て14:30 膝がガクガクしますが、本日最後の高取城へ出発です。ここから32km 1時間程度です。

高取城

高取城は奈良盆地の南方に聳える吉野山系の標高583mの急峻な山頂に築かれた連郭式の山城です。

先ずは、観光案内所でスタンプを押し、「何処まで車で行けるか?」を聞いたところ、「かなり上まで行けるが、途中から車一台が通れる山道で、途中で道がなくなる」 「その少し手前で車を回転させて止め、山道を20分程度登ったところ」「ここまで来られたのだから是非頂上まで登ってみたら」と・・・行ってみましたよ。対向車が来ないことを祈りながら。

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今日は山道が続きまよ。

城内の面積は約10,000m²、周囲は約3km、城郭全域は総面積約60,000m²、周囲約30km。山頂一帯に残る巨大な石垣群は凄く、その城郭規模の壮大さを感じさせます。

山城としては日本一の広さを誇り、備中松山城(岡山)・美濃岩村城(岐阜)とともに日本三大山城の一つ。

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高取城下を望む。

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これで三大山城は制覇です。但し、天守閣が再建されているのは備中松山城だけ。備中松山城は標高430m。美濃岩村城717mで、高取城の標高は2番目でしたね。木が生い茂っており、その中に石垣がそそりたっており、時の流れを感じます。

17:00 本日は、これで終了です。ここから約1時間。本日の宿泊場所へ向かいます。お疲れ様でした。

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